人類は、世界でも珍しい二足歩行のできる生き物だ。ヒトに最も近いと言われているチンパンジーも、地上に降りて移動する時は、手を前足のように使う。人類 の祖先も、初期の頃はそのようにしていたに違いない。では、何故人類は二本足で歩けるようになったのだろう。それを説明する仮説は数多く存在するが、私の 知る限りで最も有力だと言われている説は、次のようなものだ。

「人類の祖先はもともと森の中で暮らしていたが、ある時期を境に環境が変化 し、その森がじょじょに姿を消していった。その結果、彼らは樹上生活を捨て、地上での生活を送ることを余儀なくされる。しかし、森の後に残されたサバンナ は背の高い雑木に覆われており、辺りの状況を確認することが難しかった。そのため、彼らは後ろ足で立ち上がり、自分達の周りを見回すような姿勢を取ること が増えた。そして次第に、そのままの姿勢、つまり後ろ足で立ち上がった姿勢で移動できるようになり、それが二足歩行へと繋がった。」

この 仮説を証明するかのように、人類発祥の地とされるアフリカでは、最初の人類が地上に現れるのと丁度時を同じくして、森がサバンナへと変化していったという 地質学的な証拠が発見されているらしい。私自身も、この仮説は人類が二足歩行を獲得した原因を、自然に説明できていると思う。だが私は、もう一つ個人的な 仮説を持っている。それは、二足歩行は人類の強欲さがもたらした、というものだ。

私が、「人間ほど欲深い生物は存在しな い」と言って、反論する方は少ないことと思う。いずれにせよ、私にとって、この私自身も含めて人間というものは、この世に生きる何者よりも強欲な存在であ り、それはもはや摂理とも言えるほどの確固たる事実である。そして、私の仮説というのは、この事実を基にしている。

私の見解はまた、人間 の手の器用さについて言われる一般的な諸説とも、多少相反するものである。これまた私のごく限られた認識の上ではあるが、一般的に人類の手先が器用になっ たのは、両手が「前足」としての役割から開放されたからだとされている。つまり、移動時に両腕で体重を支える必要が無くなったおかげで、ヒトの手はその他 の霊長類とは比べ物にならないほどの機能性を追求できたのだと。

しかし私は、その逆だったのではないかと思っている。つまり、両腕を体重 を支える以外の目的で使用することが多かったからこそ、人類は二本足で歩く必要があったのではないかと思うのである。そして、その目的こそが、自らの欲望 を満たすことだったのではないかと思うのである。

もし、人類の欲望が単に、「生きたい」という、全ての生物に備わっている生存本能程度の ものであれば、それはただの欲求であり、そのために両腕を歩く以外の目的に利用する必要はなかったであろう。だが、人類が人類たり得た原因であるその強欲 は、手を地に付けていては満たされるものではなかったのではないかと、私は思うのである。

生き物にはそれぞれ、持って生まれた能力という ものがある。生まれながらにして、できることとできないことが決まっている。だが、我々の祖先は、その他の動物のように、自分達の状況を受け入れることは しなかった。自分達には硬すぎて噛み砕けない木の実を食べることを諦められなかった。自分達を脅かす肉食獣から身を潜め、ほそぼそと暮らしていくことに満 足できなかった。そして彼らは、道具を手にすることを覚えた。

始めのうちは、その場に落ちている石を使って木の実を割ったり、木の枝を投 げ付けて獣から身を守る程度だっただろう。しかし、道具の持つ力に目覚めた人類の祖先は、素手では敵わない大型の獣でも、武器を持って挑めば、獲物と捕食 者の立場が逆転することを覚えた。武器を持つことで、自分達の力が増すことを覚えた。そして彼らは、その武器を持ち歩くために、両足だけで歩くことを覚え たのではないかと、私は思うのである。

やがて人類は、自分の手を移動以外の目的で使用できるようになればなるほど、自分達の欲望を満たす ことができるということを学んでいった。殺した獲物の皮を剥がして身にまとうことを覚え、木をこすり合わせて火を起こすことを覚えた。手を使えば、自分達 の生まれ持った能力をはるかに凌駕することができることを覚えていった。そして、自分達の欲望を満たすその両手を開放するために、二足歩行をより完全なも のにしていった。

私のこの仮説は、何の学術的な裏付けも無いし、説得力に欠けていることも認める。しかし、二足歩行の直接的な原因ではな いにしろ、「欲」という概念こそが、人間とその他の生き物を隔てているのだという思いは強い。避妊を必要とするほどの性欲、過剰なまでの好奇心つまり知的 欲望、自滅的とも言える支配欲、こうした人間特有の欲望は、自然から見れば「異常」でしかないだろう。

だが、その欲望こそが、人の人たる 所以なのではないかと、私は思う。仏教では、そうした欲を捨てることが尊いとされているが、それはつまり人であることを辞めるという意味ではないのだろう か。また、「欲を捨て去るという欲求」を如何にして無に帰すのか、仏教に詳しい方がいれば、ぜひ教えていただきたいものである。

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