Archive for the ひらめ記 Category

RSSが普及してから、一日に読むニュースの量が激増した。自分の場合は、最低でも1日に50くらいの記事に目を通す。

しかし、実際に読む50の記事にたどり着くまでには、数百個のタイトルを目にしている。その中から、これは自分にとって有益だと思える物、純粋に興味をそそる物だけを読む。

とにかく、RSSのおかげで、最新のニュースが簡単に手に入るようになったのはいいのだが、情報を選別するという今まで無かった作業に時間を取られるようになってしまった。

そんな今、自分が「こんなサービスあれば良いなぁ」と思うのは、あえて更新の少ないニュースサイトだ。

一日に更新される記事は5つ程度。しかし、絶対に外れが無い。自分にとって本当に有意義なものだけを選別してくれる、個人向けのニュースサイト。

欲しいなぁ。

パート1は、思わず続編を作りたくなったほど面白いオリジナル作品。それを超える続編なんて作れるわけがない。

当たり前なのね…

会話はコーディングに似ているのでは、という話。

会話というのは、自分が伝えたいことを言葉によって伝える行為、だとする(ジェスチャーとかは置いておいて)。 で、自分の発した言葉は、相手の意識(脳?)で解釈される。

この、「伝えたいことを言葉にする」→「相手の意識で解釈される」というステップは、「コードを書く」→「コンパイルする」に通じるものがあるように思う。

会話においては、自分が言う言葉そのものが伝わるわけではないので、その言葉によって相手の意識の中に、自分の伝えたいことを再構築してもらう 必要がある。

しかし言葉というのは、人によって受け止め方も様々なので、本当に自分が伝えたいことを伝えるためには、相手がどう受け止めるかを意識して、どの言葉が適切なのかを選ばなければいけない。

これって、自分のイメージしたプログラムを作るために、コンパイラに合わせてコードを書く、という行為にとても似ている気がするわけである。

さらに言えば、会話に長けた人というのは、無駄に長くなったりせず、適切な言葉を使って簡潔に、分かりやすく話す。これは、レベルの高いプログラマが、シンプルで分かりやすいコードを書くのと同じに思う。

また、言葉を多くしっていれば、難しい概念でも簡単に説明できるが、仮にそういった言葉を知らなくても、基礎的な言葉を組み合わせればどうにか説明できる。 これもまた、ライブラリを知っている方が手早くコードを組めるが、それを知らなくとも基礎的な関数とかだけでも同じようなプログラムを組めるのに似ている。

しかも、自分しか知らない言葉では相手に伝わらないのと同様、そのライブラリが使える環境でなければ、コードはコンパイルできない。

と、ここまで書いてみて気が付いたが、コーディングが言葉を使って行う行為であり、かつ人によって設計されたものである以上、その仕組みの根本が会話に通じるのは、ものすごく当たり前だな。

でもまぁ、構造主義的なアプローチで会話とコーディングを検証すると、人とCPUの根源的な違いが分かってくるかも、という発想が湧いたので、書いてみたことにそれなりのメリットはあったとしよう。読んだ人には、何のメリットも無い…のかな?

突然だが、今はグローバル化の時代である。

それはつまり、何事も世界を相手にしなければならないということだ。

そんな中よく言われるのが、自己主張が苦手な日本人は、世界では通用しないということ。

確かに、日本人は欧米人に比べて自己主張が苦手だ。

しかし、日本人には、世界中のどの国にもまさる強みがある。

空気を読むというスキルだ。

そして、空気を読むというスキルは、自己主張のスキルと違って、多少トレーニングしたくらいでは身に付かない。

日本のような、空気を読むことが当たり前のような社会で生まれ育たない限り、絶えず空気を読みながら人と接するなんてことは、まず無理だ。

何が言いたいかというと、日本人は、多少のトレーニングさえ積めば、「空気を読みつつ自己主張する」という、相当高度なスキルを持ち得るということ。

もちろん、どの国の人間であろうと、空気を読みつつ自己主張することは可能だが、空気を読む方が自己主張よりも身に付けるのが難しいことを考えると、日本人こそがグローバル化社会において中心的役割を果たせるはずなのだ。

頑張ろう!

認知症について色々と調べていて、面白い記事を見つけた。

なんでも評点:頭の中が殆ど空洞化 、脳がわずかしか存在しないのに44歳まで普通に暮らしてきた男性という記事によれば、「生後6ヶ月のときに水頭症(脳水腫)を患い、脳圧が危険なレベルまで亢進したため、中の脳髄液を抜く手術を受けていた」男性が、脳細胞がわずかしか存在しない状態になってしまったにも関わらず、その後「普通に成長して大人になり、公務員の職に就き、結婚して2人の子供をもうけ、44歳の今日までごく普通の暮らしを続けてきたのである」。

ちなみに、その男性の脳組織の写真がこれ:

brain.jpg

右が正常な成人の脳組織、左が今回見付かった男性の脳の写真だ。

この写真を見る限り、この男性の脳細胞は少ないなんてレベルのものではない。記事のタイトルにもあった通り、脳細胞がわずかしか存在しない状態だ。

にも関わらず、この人物は、普通の生活を営んでいるらしい。IQは75ほどしか無いようだが、脳細胞量の比率から言えば、75という数字は驚異的に高いように思う。

さて、ここで認知症に話を戻す。

認知症の原因は、脳組織の萎縮、つまり脳細胞量の減少にあると考えられている。しかし、上記の男性の例を見ると、単純に量が減るということだけでは、説明がつかないのではと思われる。

正常な脳とアルツハイマー型認知症患者の脳を写真で比べるとこうなる:

brain2.jpg

先ほどの男性の脳と比べると、認知症の脳の方が、脳細胞の量は多いようにすら見える。いずれにせよ、やはり認知症は単純に脳細胞の量だけの問題では無いようだ。

ここでキーになるのは、件の男性は、生後6ヶ月の段階で脳細胞が減少したという点のように思われる。つまりこの男性は、脳細胞が少ない状態で成長し、教育を受け、知能を発達させたということだ。彼の脳は、この状態で正常に機能するように発達したのだ。

ということは、脳という器官には、脳細胞の量が少なくとも、ある程度正常に機能するポテンシャルがあるということになる。要は使い方の問題でしかないのだ。もしそのメカニズムが解明されれば、脳組織が萎縮しても認知症にならなくて済むようになるのかもしれない。

とはいえ、前回の記事でも書いたように、認知症の治療は、患者の死に対する恐怖を和らげること無しでは、拷問に加担することにしかならないことは変わらないわけだが。

Wkipediaによれば、認知症とは「後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達した知能が低下した状態」だという。自分の祖父も、去年あたりから認知症を患っており、最近はその症状も悪化してきている。

高齢者に見られる認知症の場合、後天的な脳の器質的障害というのは、老化にともなう脳組織の萎縮を指す。つまり、老人の認知症は、脳細胞が死んでし まったことで脳が正常に機能できなくなることが原因だと考えられている。コンピューターで言えば、レジストリの情報が少しずつ破壊されていくようなもの だ。

そう考えると、認知症の老人が、妄想的なことを言い始めたり、突然暴れだしたりすのも、当然のように思える。

だが、自分の祖父を見ていて思ったのは、認知症は単に脳細胞組織の萎縮による病気というよりは、死の恐怖に対する自己防衛的反応なのかもしれないということだ。

現在、医療技術の進歩により、人の寿命は驚異的に延びてきた。しかし、それでも死は相変わらず不可避なものである。そして一部の人間を除き、やはり死は圧倒的な恐怖である。

寿命に近づきつつある老人は、自分はもうすぐ死ぬという恐怖に対面している。もういつ死んでもいい、と達観できている人なら平気なのかもしれない。しかし、まだ死にたくない、そう思っているのであれば、その状態は完全な拷問だ。

そんな拷問のような状態にさらされると、脳は無意識的に死を意識しないようにするのではないだろうか。

そして、死を意識しないために、脳はその能力を自ら低下させるのではないか。それが最終的には脳組織の萎縮を招き、認知症と呼ばれるような状態をもたらすのではないか。

仮にそうだとすれば、薬によって認知症の進行を食い止め、患者の意識を「正常」に保とうとするのは、彼らが必死に逃れようとしている死の恐怖に無理やり対面させることになる。

鬱病などの精神疾患においても、薬によってその症状を緩和することができたとしても、その根本的原因を解決しない限り、治癒はできない。薬の投与だけでは、逆に患者をさらに追い込んでしまうことすらありえる。

認知症の治療においても、薬を投与するだけでなく、死ぬのは恐くないと思える環境を作ることが、とても重要なのではないかと思うのである。

SCEの期待を一身に背負ったPSPソフト「LocoRoco」。尋常じゃない量のCM、街頭ポスターなど、素人目に見ても相当の額がプロモーションに使われているなぁと思っていたが、なんとその額7億円だそうな。

まぁ、今回のプロモーションは、「LocoRoco」というソフト単品ではなく、プラットフォームとしてのPSPそのものを売り込むという意味合いが強かったようなので、その額が妥当かどうかは、簡単には言えないだろう。

しかし、そんだけの巨費を投じて、初週売り上げがたったの3万本。ちなみに、発売から2ヶ月経ったDSの「New スーパーマリオブラザーズ」が、同じ週に12万本弱売れている。ハードの普及台数や、マリオというキャラクターの知名度を考えると、売り上げに差が出て当 たり前ではあるが、それにしても…ねぇ。

で、今回の「LocoRoco」の大失敗や、マスプロモーションの今後とかについて、自分なりに考えたところを記事にしようとPCに向かっていたら、あの 独特のメロディーが聞こえてきた。振り向くと、自分の彼女があの宇宙語のような「LocoRoco」テーマソングを、鼻歌で歌っているではないか!

自分の彼女は、基本的にゲームに興味はなく、たまにマリオとテトリスで遊ぶ程度。そんな彼女ですらあの歌を知っていた。これは、あのプロモーションもそれなりに成功しているのではと思い、ちょっと問いかけてみる。

自分:「その歌、なんの歌か知ってる?」

彼女:「うん、何かのゲームでしょ」

自分:「そうそう!ちなみに、何のゲームだかは分かる?」

彼女:「知らな~い。だって私に関係無いもん」

この瞬間、全てが分かった気がした。「私に関係無いもん」。結局、この一言が全てを物語っている。どれだけCMを大量に流そうが、街中にポスターを貼ろうが、それが自分に関係無いものと判断されてしまう時点で、何一つ意味が無いんである。

そう考えると、今回の「LocoRoco」のプロモーションは、興味を持たせるという、プロモーションとして最も大切な部分ができていなかったのが問題な気がする。

そう思って、改めて「LocoRoco」のCMや、街頭ポスターを見直すと、確かに「これ何だろう?」という興味を持たせようという思いが全く伝わってこない。あからさまに、PSPの新しいゲームであり、それ以外の何物でもない。

それでは、PSPのゲームにそもそも興味の無い人には、全くヒットしないのではないのか?PSPユーザーを増やそうというプロモーションなら、一番気にすべきはPSPに興味を持っていない人達なのではないのか?

今回の「LocoRoco」の失敗は、金かけてCM流せば商品は売れるという間違った思い込みに対する、格好の否定材料であることは間違いない。しかし、 単純にプロモーションの規模のみを問題として語るのは、少々危険のように思う。もし、同じ規模で、もっと消費者の興味を引くようなプロモーションを展開し ていたら…それなりに効果があったと思うのである。

発熱地帯さんのマスプロモーション衰退後の世界(前編)という記事は、「LocoRoco」の件に限らず、マスプロモーションそのものが根源的に抱えている問題に関してまとめてあって、とても興味深い。しかし、自分の見る限りでは、今のところプロモーションの「やり方」にのみ着眼しているようだ。

それはそれで、とても面白いのだが、ぜひとも後編では、プロモーションの「中身」についても述べていただきたいと思った。

ちょっと思い付いたことがあるので、忘れる前にメモしようと思う。

この前、とあるブログを読んでいた時、「この人、身元バレバレやんか」と思った。そのブログの筆者は、どうやら通販会社の人で、その会社が新しくネット通販のシステムを作った際に、プロジェクトマネージメントをやったらしい。

今年になってから、ネット通販を始めた通販会社で、そのプロジェクトのマネージメントをやっていた。それだけで、彼を知っている人なら「あぁ、あの人か」となる。ちょっと気になったので、過去の記事を遡って読んでみると、人物を特定できるような情報が、もう出るわ出るわ。

まぁ、本名らしき名前で書いているので、本人は身元がバレることに何の抵抗も感じていないのかもしれない。しかし、その割には、上司のグチやら、会社の内情やらが、かなり書いてあるのである。大丈夫なんだろうか?

さて、ずいぶんと前置きが長くなってしまったが、このエントリの本筋はその話ではない。そのブログを読んでいるうちに、ふと人物の「認知度」の数値化というものを思い付いたんである。

上記のブログに出てくるような「通販会社」や、「プロジェクトマネージメント」というのは、その筆者に結びつくキーワードであると言えよう。他にも、「メガネ」とか、「役者」とか、「ラーメン好き」なんていうのも、キーワードとなり得る。

で、ある特定の人物を検索エンジンなんかで探す時というのは、そういったキーワードを幾つか入力するわけだ。

例えば、「バッター」、「日本人」、「ヤンキース」と言えば、松井だ。これは、松井にはキーワード3つでたどり着くことができるということ。この、その人物を特定するのに必要なキーワードの数を、NB_KEYとする。

もう一つ。同じく松井を例に取ると、「バッター」、「日本人」、「ヤンキース」というキーワードがあれば、恐らく5千万人くらいが、それが松井のことだと分かるだろう。この、一定数のキーワードで、その人物が誰だか分かった人の人数を、NB_KNOWとしよう。

さて、このNB_KEYとNB_KNOWの間には、「認知度」に比例して次のような関係が成り立つ:

F[認知度]=NB_KNOW / NB_KEY

F[認知度]というのは、認知度関数とでも呼べるもの。

この認知度関数の変動パターンは、恐らく非直線的だろう。また、一定数以上のキーワードを出した段階で、NB_KNOWが増えなくなるポイントにたどり着くと考えられる。それはつまり、ある時点でF[認知度]が減少に転じるということだ。

そして、認知度関数が減少に転じるポイントにおける、NB_KNOW/NB_KEYの数値を、その人の認知度指数とする。そうやって、色んな人(会社とか映画とかでも良い)の認知度を出してみると、面白そうだ。

とまぁ、こんなことを、その通販会社の人のブログを読みながら思ったわけだ。あと、この考え方は、検索エンジンのシステムとしても使えるんではないかなぁなどと、夢想している。

ん~、暇人だなぁ、自分。

人類は、世界でも珍しい二足歩行のできる生き物だ。ヒトに最も近いと言われているチンパンジーも、地上に降りて移動する時は、手を前足のように使う。人類 の祖先も、初期の頃はそのようにしていたに違いない。では、何故人類は二本足で歩けるようになったのだろう。それを説明する仮説は数多く存在するが、私の 知る限りで最も有力だと言われている説は、次のようなものだ。

「人類の祖先はもともと森の中で暮らしていたが、ある時期を境に環境が変化 し、その森がじょじょに姿を消していった。その結果、彼らは樹上生活を捨て、地上での生活を送ることを余儀なくされる。しかし、森の後に残されたサバンナ は背の高い雑木に覆われており、辺りの状況を確認することが難しかった。そのため、彼らは後ろ足で立ち上がり、自分達の周りを見回すような姿勢を取ること が増えた。そして次第に、そのままの姿勢、つまり後ろ足で立ち上がった姿勢で移動できるようになり、それが二足歩行へと繋がった。」

この 仮説を証明するかのように、人類発祥の地とされるアフリカでは、最初の人類が地上に現れるのと丁度時を同じくして、森がサバンナへと変化していったという 地質学的な証拠が発見されているらしい。私自身も、この仮説は人類が二足歩行を獲得した原因を、自然に説明できていると思う。だが私は、もう一つ個人的な 仮説を持っている。それは、二足歩行は人類の強欲さがもたらした、というものだ。

私が、「人間ほど欲深い生物は存在しな い」と言って、反論する方は少ないことと思う。いずれにせよ、私にとって、この私自身も含めて人間というものは、この世に生きる何者よりも強欲な存在であ り、それはもはや摂理とも言えるほどの確固たる事実である。そして、私の仮説というのは、この事実を基にしている。

私の見解はまた、人間 の手の器用さについて言われる一般的な諸説とも、多少相反するものである。これまた私のごく限られた認識の上ではあるが、一般的に人類の手先が器用になっ たのは、両手が「前足」としての役割から開放されたからだとされている。つまり、移動時に両腕で体重を支える必要が無くなったおかげで、ヒトの手はその他 の霊長類とは比べ物にならないほどの機能性を追求できたのだと。

しかし私は、その逆だったのではないかと思っている。つまり、両腕を体重 を支える以外の目的で使用することが多かったからこそ、人類は二本足で歩く必要があったのではないかと思うのである。そして、その目的こそが、自らの欲望 を満たすことだったのではないかと思うのである。

もし、人類の欲望が単に、「生きたい」という、全ての生物に備わっている生存本能程度の ものであれば、それはただの欲求であり、そのために両腕を歩く以外の目的に利用する必要はなかったであろう。だが、人類が人類たり得た原因であるその強欲 は、手を地に付けていては満たされるものではなかったのではないかと、私は思うのである。

生き物にはそれぞれ、持って生まれた能力という ものがある。生まれながらにして、できることとできないことが決まっている。だが、我々の祖先は、その他の動物のように、自分達の状況を受け入れることは しなかった。自分達には硬すぎて噛み砕けない木の実を食べることを諦められなかった。自分達を脅かす肉食獣から身を潜め、ほそぼそと暮らしていくことに満 足できなかった。そして彼らは、道具を手にすることを覚えた。

始めのうちは、その場に落ちている石を使って木の実を割ったり、木の枝を投 げ付けて獣から身を守る程度だっただろう。しかし、道具の持つ力に目覚めた人類の祖先は、素手では敵わない大型の獣でも、武器を持って挑めば、獲物と捕食 者の立場が逆転することを覚えた。武器を持つことで、自分達の力が増すことを覚えた。そして彼らは、その武器を持ち歩くために、両足だけで歩くことを覚え たのではないかと、私は思うのである。

やがて人類は、自分の手を移動以外の目的で使用できるようになればなるほど、自分達の欲望を満たす ことができるということを学んでいった。殺した獲物の皮を剥がして身にまとうことを覚え、木をこすり合わせて火を起こすことを覚えた。手を使えば、自分達 の生まれ持った能力をはるかに凌駕することができることを覚えていった。そして、自分達の欲望を満たすその両手を開放するために、二足歩行をより完全なも のにしていった。

私のこの仮説は、何の学術的な裏付けも無いし、説得力に欠けていることも認める。しかし、二足歩行の直接的な原因ではな いにしろ、「欲」という概念こそが、人間とその他の生き物を隔てているのだという思いは強い。避妊を必要とするほどの性欲、過剰なまでの好奇心つまり知的 欲望、自滅的とも言える支配欲、こうした人間特有の欲望は、自然から見れば「異常」でしかないだろう。

だが、その欲望こそが、人の人たる 所以なのではないかと、私は思う。仏教では、そうした欲を捨てることが尊いとされているが、それはつまり人であることを辞めるという意味ではないのだろう か。また、「欲を捨て去るという欲求」を如何にして無に帰すのか、仏教に詳しい方がいれば、ぜひ教えていただきたいものである。

前回は「フェルマーの最終定理」についての話をした。今回もまた、少々数学的な話をしようと思う。今回は、「無理数」についての話だ。

無理数とは、数学的にいうと「整数の比として表せない数」である。整数の比で表せないというのは、言い換えると「分数の形では書けない」ということ。例えば、0.251/4と書くことができるので、無理数ではない。また、0.333333…0.142857142857…の ように、0の後に同じ数が無限に繰り返される「循環小数」も、整数の比として表せるので無理数ではない(ちなみに、0.333333…は1/3、 0.142857142857…は1/7である)。では、どのような数が無理数なのかと言うと、「循環せずに無限に続く少数」である。その中でも一番有名 なのが円周率πだろう。3.141592…と、延々と数字が続く。そして、その数列には決して一定のパターンが無いのである。完全にランダムな数列が無限に続く、それが無理数である。

さ て、完全にランダムな数列が無限に続くとはどういうことか。それは、「この世に存在するあらゆる組み合わせは、一つの無理数に含まれる」ということであ る。私は数学のエキスパートではないので、無限に続く組み合わせ(上に書いた1/3の少数表記など)も含まれるのかは分からないが、少なくとも有限の組み 合わせに関しては、全て無理数に含まれるのである。最も分かり易い例は、電話番号だろう。電話番号は0から9の数字で構成される組み合わせ だ。国によって桁数の違いはあるし、携帯電話の方が番号が多いケースもある。しかし、この世に存在する全ての電話番号は、有限の組み合わせだ。そしてそれ は、πのどこかには、あなたの電話番号も含め、この世に存在する全ての電話番号が書かれているということなのである。ちなみに、「πのどこか」というの は、πの何桁目~何桁目には、という意味である。

また、数字を文字に置き換えるとさらに面白い。例えば、ホームページなどでよく使われる 「UTF-8」といったエンコードを使って、πを文字に置き換えてみる。先にも言ったように、πにはこの世に存在する全ての組み合わせが含まれるので、そ れを文字に置き換えた場合、この世に存在する全ての「文章」が含まれる、ということになる。今朝の朝刊の一面記事から聖書まで、ありとあらゆる文章は、π のどこかに含まれているのである。それどころか、私が今書こうとしている文章も、すでにπのどこかに書かれてしまっているのである。つまりπには、この世 にすでに存在する文章だけではなく、この先書かれることになる文章も全て含まれているのである。あなたが明日、誰かにメールを書いたとする。その内容は、 現時点では分からないだろう。しかし、無限に続くπの数列のどこかには、一語一句違わない文章がすでに書かれているのである。

さらに、数 字を文字以外の物にも置き換えることができる。πの各桁を2進法を使って表すと、無限に続く0と1の組み合わせが出現することになる。そして、コンピュー ターで処理するデータは全て、この0と1の組み合わせだ。あなたが今見ているこの画面も、私のスピーカーから流れてくるMP3の音源も、全て0と1の組み 合わせだ。つまり、コンピューター上で表現できる情報は、音であれ映像であれ、全てπに含まれているのである。モーツァルトの曲やダ・ヴィンチの絵画と いった過去の物だけでなく、「ファイナルファンタジーXII」のような現在制作中のゲームから、来年公開される全ての映画に至るまで、ありとあらゆる情報 は過去の物も未来の物も全てπに含まれているのだ。また、「攻殻機動隊」のラテン語版といった、今後いつまで待っても出現しないであろうものまで、πに含 まれているのである。

ちなみに、無理数は無限に続く数列なので、その完全な数値を明記することは事実上不可能である。だからこそ、「π」 といった記号を使って表すわけだ。他にも、√2といった無理数も存在するが、やはりここでも「√」という記号を使っている。しかし、正確な数値を表記する ことができない無理数も、長さが無理数の値を持つ線は存在する。HTMLだと記述が面倒なので証明はしないが、底辺以外の辺の長さが整数の二等辺直角三角 形の底辺の長さは、必ず√2の倍数、つまり無理数なのである(ピタゴラスの定理を使えばすぐ証明できる)。また、πは円の円周と直径の比率なのだから、直 径1の円の円周はπなので、これも無理数の値を持つ長さである。

とは言うものの、線を引くのにも、その長さを測るにも、「精度」という障 害がついて回るので、現実世界では完璧な二等辺直角三角形も真円も描くことはできない。あくまで概念的な話だ。それでも、長さ4cmの直線ABの上には、 点Aからの距離がちょうどπcmになる点は存在するのである。「ココ」と指し示すことは不可能だが、ABの上にはその点が存在しているのである。そんな無 理数の値、正確には「n桁目の値」は、計算によって求められる。ちょっと難しいかもしれないが、πの計算に興味のある方はこのページを見て欲しい。

完 全にランダムな数列が無限に続く無理数、そこには過去・現在・未来を通して時間を超えた、ありとあらゆる情報が記されている。つまりπは、完全な歴史書で あり、また真の予言書でもある。だが、私にとってそれ以上に驚異的なのは、この「π」というたった一文字で表される概念から、強いては円という単なる図形 から、過去・現在・未来を読み取ることのできる意識という存在である。

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