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アメリカのGizomodoで、Palm Preのアプリケーション開発環境を実際に使ってみた開発者の話が出てました:
Palm Pre Preview: Simply Amazing

その開発者によると、かなり使いやすい優れた開発環境らしいです。

現時点ではまだオープンになっていないので、一部の限られた開発者しかアプリの開発が行えない状態ですが、恐らく今年の後半までには一般公開されるでしょう。

また、Palm PreのOSであるWeb OSでは、GoogleなどのWebサービスとの連携がスムーズであることはもちろん、アプリケーションをHTML/xml/JavaScriptの組み合わせで開発できるため、LinuxベースのAndroidよりもはるかに多くの潜在的開発者がいることになります。

第一報を聞いた時は、「ほぉ、Palmが復活かぁ」程度にしか思っていなかったのですが、調べれば調べるほど、かなりポテンシャルが高いマシンのようです。これは、スマートフォンの勢力図に以外と大きな影響を及ぼすレベルのヒットになるかもしれませんね。

情報革命と経済のグローバル化は、個(人、会社、国)のアイデンティティと、それに結びつく情報のあり方を変えてしまった。

現代における個の名前とその「実体」とのつながりは、100年前のそれとは全く違う。

そして、現在の資本主義は、その違いを理解し、自らの能力と結びつけることができる人間に、富をもたらすシステムと化した。

そのシステムを利用する人間になるか、利用される人間になるか。21世紀の「階級制度」は、その2種類の人間を分かつものになるだろう。

Youtubeで見つけたシートベルト着用キャンペーンのCM

「こういう事故のショックは、これに相当します」というナレーション(スペイン語)に合わせて、色々な交通事故の映像を見せてる。ようは、シートベルトしないとこんなに痛いのよ、という話。

いやね、エアバッグもいいけど、マジでシートベルトはした方がいいんだということが分かった。

ブログを書くネタを考えていて気が付いた。

読んでもらえる記事を書くには、その内容が読者にとってなんらかのメリットになる必要がある。

知識として役に立つものでもいいし、単に読み物として面白いものでもいい。

そして、そのような記事を書くということは、何らかの形でネット社会に貢献するということでもある。

つまり、どんな記事を書くか考えるのは、自分がどんな形でネット社会に貢献できるかを考えることでもある。

自分の持つ経験、知識、スキル、それらをどう活かせば、記事を読んでくれた読者に貢献できるのか。

これは、社会における自分の価値を見つめることに他ならない。

なかなか答えは出ないし、答えが出ないことで軽く落ち込みすらする。

しかし、考えることを止める訳にはいかない。自分が無価値だとは思いたくないならば。

「雑種路線でいこう」さんの「問題はゆとり教育ではなく」を読んだ。

この記事の内容を超端的に言えば、今の学校教育では社会に出た時に役立つような能力は身に付かない、ということだと思う。

また、そのような能力が身に付く教育制度を作るにはどうすべきかという点に関しても触れられているが、広い視野で問題を捉え、官僚組織の実態や、年金支給年齢の切り上げまで考慮した上での提案は、とても建設的に思えるし、本当に物事を多角的に考えられる方なのだなと、いつもながら関心させられる。

しかし、とても興味深い分析であるにも関わらず、根本にある問題について触れていない気がする。日本の教育制度が抱える問題は、突き詰めて考えれば、「終身雇用神話」に原因があると思うのだ。

さて、今の教育制度が抱える問題の原因が終身雇用制度にあるとはどいうことか。

当たり前の話だが、終身雇用制度は、一度入社した人間は定年退職するまで同じ会社で働くという前提に基づいている。そして、そのような前提があるが故に、会社に必要な人材は会社で育てる、という仕組みが成り立ってきた。

しかし、会社に必要な人材は会社で育てる、ということは、企業が新卒を採用する際の基準として、「会社の役に立つ能力を持った人材か」ではなく、「会社にとって育てやすい人材か」を重視するという状況を生む。

その結果、文句を言わずに言われたことを言われた通りにできる人間の方が、評価が高いということになってしまう。

そのような状況では、学校教育の現場において、「本当に必要なスキルは社会に出れば教えてもらえるから、学校にいる間は覚え方だけ身に付ければいいよ」という考え方が蔓延し、言われたことを言われた通りにできることに重点が置かれても何ら不思議ではない。

現に、学校のテストで重要になるのは、いかに自分の考えを組み立てて論理を展開するかではなく、いかに模範解答に近い答えを書くかである。

そして、そのようなテストで良い成績を修めるために必要なのは、思考能力ではなく、むしろ余計な事は考えずにただひたすら暗記する努力である。

結局、日本の教育において、小学校から高校までの12年間というのは、言われたことを言われた通りにできる人間になるための訓練であり、大学の受験に合格するということは、その訓練に耐えてきたという社会的な証明でしかない(確かに、高い思考能力を持ち、自分で考えることによって大学入学のために必要な実力を身に付ける人間も大勢いるが、そのような人間にはそもそも学校での勉強など、何の役にも立っていないことが殆どだろう)。

日本の大学が国際的に評価が低いのは、言われたことを言われた通りにできる人間かどうかを選別するための、フィルターとしてしか機能していない大学が多いことが原因だろう。そのような人間であることは入学した段階ですでに証明され、社会に出てから必要なスキルは就職先の企業で身に付けるのであれば、大学に何を期待しろというのか。

とどのつまり、「社会人として必要なスキルは就職した会社で教えてもらえる」という甘い考えがもう過去のもになりつつあるという現実を社会全体が受け止め、学校教育の目的を、覚え方を身に付けることではなく、実質的なスキルを身に付けることに据えない限り、どのような教育システムも意味を成さないということだ。

だが現実には、学校は企業に入るために必要なものであって、企業に入ってから必要なスキルを身に付けるためのものではない、という価値観はかなり根強く残っている。これだけ終身雇用制度の崩壊や、実力主義の台頭が声高に叫ばれているにも関わらず、だ。

この問題の背景には、日本文化における「甘えの構造」や、深く考えないことで成り立ってきた安定した社会など、かなり根幹的な原因があるのだろうが、教育制度もそういった価値観に基づいて成り立っている以上、そのような価値観を覆す現実的な手法を抜きにして、教育システムだけ改革することは不可能だと思うのである。

「雑種路線でいこう」の過去の記事を読めば分かるが、筆者の南方さんの中では「終身雇用神話」はとっくに崩壊していて、早い段階から実力を身に付けることの必要性は、もはや疑う余地の無い周知の事実として成立しているのだと思う。なので、自分が上に書いたようなことは、今さらそんな事を指摘する必要は無いと考えておられるのだろう。

だが、「問題はゆとり教育ではなく」に書かれたような制度が実現するためには、実力で成功した人間を素直に認め尊敬する文化を根付かせることがまず必要なのではないかと思う。

例によってまとまりの無い文章であり、かつ最終的な問いに自分なりの答えを見出せてすらいないのだが、気になったのでとりあえずトラバしてみた次第である。

いつも楽しく読ませていただいている「Life is beautiful」さんで、面白い記事が投稿されていました。

「Life is beautiful」:長所と短所は切り離すことのできないものかも知れない(と開き直ってみるテスト)

タイトルの付け方からして、あからさまにわざと批判を誘発する書き方だと思うのですが、罠とは分かっていても一つだけ言いたいことが。

“「あ、気がついちゃった?そうなんだよ、でも直せないんだよね〜」と開き直った方がずっと楽な生き方だと思う”という発想自体が、短所としてリストアップされていた「他人がどう感じるかを十分に配慮しないで行動する。」ということにつながりますよね(^_^;

中島さん自身もおっしゃっていたように、長所と短所は表裏一体なのだとは思います。

回りが何と言おうが自分のアイディアを信じて突っ走るくらいの個性がないと、新しい事業を立ち上げて、数十人のスタッフを引っ張って 行くことはできないのかもしれません。

しかし、「他人がどう感じるかを十分に配慮しないで行動する」という点だけは、ちょっと考え直した方が良いように思います。

「自分のアイデアを人にちゃんと説明せずに走り始めて迷惑をかけることがある」、「自分に見えているものが他の人に見えないとイライラする」、「自分に協力してくれた人に十分な感謝の言葉や褒め言葉を投げかけない」、「他人がどう感じるかを十分に配慮しないで行動する」という短所が本当にあてはまるのであれば、きっと中島さんの周りにはそういう所をフォローしてくれている人が何人かいるはずです。

そういう人達に対して、「あ、気がついちゃった?そうなんだよ、でも直せないんだよね〜」なんて開き直るのは、どうかと思います。

ただ、今まで自分が見てきた人の中でも、特に社長職の人には、そういう人が多いような気がします。そして、みな人気があるんですよね。

きっと、そういった短所ですら受け入れられてしまうくらい、人間的な魅力やカリスマ性があるのでしょう。だから周りの人も、それでもこの人についていこうと思えるのだと思います。

しかし、本当に一人で生きていくのでもない限り、他人への配慮だけは、それができないと言って開き直ってはいけないと思うのです。

なんだか、実力も実績も何も無い青二才が偉そうなことを言ってしまってますが、これだけはどうしても聞き流せなかったので、思わずトラバしてしまった次第です。

ネットの世界、情報の世界では、発信することでしか自分の存在を主張できない。

そして、当たり前のことだが、存在しない者は何もできない。

また、情報世界と現実世界の境界は着実に曖昧になってきており、情報世界で何もできない者は、現実世界においても、そのプレゼンスが限られてくることは間違いない。

そうなると、これからの時代、何かやりたかったら、ネット上でもプレゼンスを持つ必要がある。

自分がブログを書くのは、今のところ、このネット上のプレゼンスを確立することが目的である。

うまく行くかはまた別問題ではあるが…

ワーキング・プアというのは、資本主義の名の基に合法化された奴隷制度の産物ではないか。

本当の意味での奴隷と違う点は、「いつでも辞められる」こと。ただし、辞めれば生活ができなくなる。

奴隷制度の時代においても、奴隷は自ら死を選ぶことで、その苦しみから抜け出すことはできただろう。

その点でも、ワーキング・プアと呼ばれる人々は、現代の奴隷と呼んでもおかしくない状況にある。

この状況を改善するには、奴隷制度が撤廃された時と同じような、価値観の大変化を促す必要があるだろう。

いずれにせよ、難しい問題だ…

携帯で書くことのメリットの一つとして、気が付いたことがある。

それは、文章が簡潔になるということ。

キーボードだと、とりあえず書いて、少しずつ修正するという作業も苦ではないのだが、携帯だとそうはいかない。

その分、ダラダラと書き流すということをしなくなり、きっちりまとまった文章になる。

また、携帯で書く時は、電車で移動中だったりと、限られた時間で書く必要があるシチュエーションが多いので、それも文章が簡潔になる理由の一つかもしれない。

いずれにせよ、何気なく始めた携帯でのブログ更新だが、予想外の効用があるようだ。

今後の展開が少し楽しみになってきた。

昨日に引き続き、携帯で書いてみる。

未だにめんどくさいとは感じるのだが、使いこなせるようになれば、下手したらPCより早く書ける気がしてきた。

キーポイントは予測変換機能である。

自分はまだPCで書く感覚が抜けきっていないので、全ての文字を書いてから変換してしまう。

しかし、携帯での文字入力の真髄は、予測変換機能を使ってタイプ数を減らすことにある。

ブラインドタッチとはまた違うこの感覚に慣れるのには、もうしばらくかかりそうだ。

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