情報革命と経済のグローバル化は、個(人、会社、国)のアイデンティティと、それに結びつく情報のあり方を変えてしまった。

現代における個の名前とその「実体」とのつながりは、100年前のそれとは全く違う。

そして、現在の資本主義は、その違いを理解し、自らの能力と結びつけることができる人間に、富をもたらすシステムと化した。

そのシステムを利用する人間になるか、利用される人間になるか。21世紀の「階級制度」は、その2種類の人間を分かつものになるだろう。

今日、とある会社の社長さんとお話する機会があった。その中で、「どんなビジネスをするにしても、これが大事だよね」という、ビジネスの基本の話が出た。

その基本というのは、もの凄く単純明快。

「ありがとう」と「ごめんなさい」をきちんと言えること。

日本語さえ分れば、誰にでも理解できる。でも、深い。

本当の意味でこれを実践できている人がどれくらいいるんだろう。自分も気を付けねば。

ヨーロッパでは、携帯電話普及の当初からSIMカードが使われており、同一の端末を異なるキャリアのネットワークで使える環境だった上に、日本でも去年始まったナンバーポータビリティー制度が早くから導入されたため、端末とキャリアが固定されている日本とは全く違う状況になっている。

MVNOに関して言えば、90年代後半の段階からすでにその動きが始まっていて、一番の成功例であるVirgin Mobileがイギリスで登場したのは1999年。

2003年には、欧州委員会がEU加盟国に対して、自国の電話市場における特定企業の独占状況を見直すよう通達を出し、その影響で、多くの国でそれまで不可能だったMVNO参入を可能にする法律が整備された。

それを機に、多種多様な企業がMVNOとして参入し、今では大手小売チェーンのカルフールといった企業からも、独自の料金プランのサービスが提供されている。

以上のような経緯から、欧州では、どの端末を使うかと、どのキャリアの料金プランを選ぶかは、ほぼ切り離されているため、自分が好きなデザインの端末を、自分の使い方に一番合った料金プランを提供するキャリアで使うという(例えば、905i端末を、AUの誰でも割で使うみたいな)日本では考えられないような自由度がある。

日本では、端末の根幹に関わる特許をキャリアが保有しているなど、色々と特殊な事情があるため、ヨーロッパのような状態になることはしばらくは無いと思うが、もしそのような状況になれば、ディズニーモバイルのような事例はもっと多く出てくることになるだろう。

パート1は、思わず続編を作りたくなったほど面白いオリジナル作品。それを超える続編なんて作れるわけがない。

当たり前なのね…

人に何かを頼む時は、「なぜそれが必要なのか」も合わせて説明すると良い。

「そこのお塩取って」みたいな、シンプルなお願いならその必要は無いかもしれないが、たとえば「~~について調べておいて」といった依頼をする場合、なぜその情報が必要かを説明しておかないと、どうでもいいような情報しか得られないことは多々ある。

また、得られた情報を何に使うかを明確にすることで、調査をする側も、どういう調べ方をすればいいかイメージしやすいし、何よりお互いにとって無駄な時間を省くことができる。

ということなので、人に何か頼む時は、「何をしてほしいか」だけではなく、「なぜそれが必要なのか」 という点に関しても、お互いの認識が一致しているかを確認することをお勧めする。

Youtubeで見つけたシートベルト着用キャンペーンのCM

「こういう事故のショックは、これに相当します」というナレーション(スペイン語)に合わせて、色々な交通事故の映像を見せてる。ようは、シートベルトしないとこんなに痛いのよ、という話。

いやね、エアバッグもいいけど、マジでシートベルトはした方がいいんだということが分かった。

ブログを書くネタを考えていて気が付いた。

読んでもらえる記事を書くには、その内容が読者にとってなんらかのメリットになる必要がある。

知識として役に立つものでもいいし、単に読み物として面白いものでもいい。

そして、そのような記事を書くということは、何らかの形でネット社会に貢献するということでもある。

つまり、どんな記事を書くか考えるのは、自分がどんな形でネット社会に貢献できるかを考えることでもある。

自分の持つ経験、知識、スキル、それらをどう活かせば、記事を読んでくれた読者に貢献できるのか。

これは、社会における自分の価値を見つめることに他ならない。

なかなか答えは出ないし、答えが出ないことで軽く落ち込みすらする。

しかし、考えることを止める訳にはいかない。自分が無価値だとは思いたくないならば。

今日ちょっとしたことに気が付いた。

「無」という字は「む」と読むが、「む」はもともとは無音だった。「参らむ」と書いて、「まいらん」と読んでいたわけだ。

つまり、「無」という概念を、「む」、今で言うところの「ん」で表現していたわけだ。

「無」を無音で表す、これほど効率的で直感的な言い方はない。

日本語ってすげぇ。

会話はコーディングに似ているのでは、という話。

会話というのは、自分が伝えたいことを言葉によって伝える行為、だとする(ジェスチャーとかは置いておいて)。 で、自分の発した言葉は、相手の意識(脳?)で解釈される。

この、「伝えたいことを言葉にする」→「相手の意識で解釈される」というステップは、「コードを書く」→「コンパイルする」に通じるものがあるように思う。

会話においては、自分が言う言葉そのものが伝わるわけではないので、その言葉によって相手の意識の中に、自分の伝えたいことを再構築してもらう 必要がある。

しかし言葉というのは、人によって受け止め方も様々なので、本当に自分が伝えたいことを伝えるためには、相手がどう受け止めるかを意識して、どの言葉が適切なのかを選ばなければいけない。

これって、自分のイメージしたプログラムを作るために、コンパイラに合わせてコードを書く、という行為にとても似ている気がするわけである。

さらに言えば、会話に長けた人というのは、無駄に長くなったりせず、適切な言葉を使って簡潔に、分かりやすく話す。これは、レベルの高いプログラマが、シンプルで分かりやすいコードを書くのと同じに思う。

また、言葉を多くしっていれば、難しい概念でも簡単に説明できるが、仮にそういった言葉を知らなくても、基礎的な言葉を組み合わせればどうにか説明できる。 これもまた、ライブラリを知っている方が手早くコードを組めるが、それを知らなくとも基礎的な関数とかだけでも同じようなプログラムを組めるのに似ている。

しかも、自分しか知らない言葉では相手に伝わらないのと同様、そのライブラリが使える環境でなければ、コードはコンパイルできない。

と、ここまで書いてみて気が付いたが、コーディングが言葉を使って行う行為であり、かつ人によって設計されたものである以上、その仕組みの根本が会話に通じるのは、ものすごく当たり前だな。

でもまぁ、構造主義的なアプローチで会話とコーディングを検証すると、人とCPUの根源的な違いが分かってくるかも、という発想が湧いたので、書いてみたことにそれなりのメリットはあったとしよう。読んだ人には、何のメリットも無い…のかな?

突然だが、今はグローバル化の時代である。

それはつまり、何事も世界を相手にしなければならないということだ。

そんな中よく言われるのが、自己主張が苦手な日本人は、世界では通用しないということ。

確かに、日本人は欧米人に比べて自己主張が苦手だ。

しかし、日本人には、世界中のどの国にもまさる強みがある。

空気を読むというスキルだ。

そして、空気を読むというスキルは、自己主張のスキルと違って、多少トレーニングしたくらいでは身に付かない。

日本のような、空気を読むことが当たり前のような社会で生まれ育たない限り、絶えず空気を読みながら人と接するなんてことは、まず無理だ。

何が言いたいかというと、日本人は、多少のトレーニングさえ積めば、「空気を読みつつ自己主張する」という、相当高度なスキルを持ち得るということ。

もちろん、どの国の人間であろうと、空気を読みつつ自己主張することは可能だが、空気を読む方が自己主張よりも身に付けるのが難しいことを考えると、日本人こそがグローバル化社会において中心的役割を果たせるはずなのだ。

頑張ろう!

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