「雑種路線でいこう」さんの「問題はゆとり教育ではなく」を読んだ。

この記事の内容を超端的に言えば、今の学校教育では社会に出た時に役立つような能力は身に付かない、ということだと思う。

また、そのような能力が身に付く教育制度を作るにはどうすべきかという点に関しても触れられているが、広い視野で問題を捉え、官僚組織の実態や、年金支給年齢の切り上げまで考慮した上での提案は、とても建設的に思えるし、本当に物事を多角的に考えられる方なのだなと、いつもながら関心させられる。

しかし、とても興味深い分析であるにも関わらず、根本にある問題について触れていない気がする。日本の教育制度が抱える問題は、突き詰めて考えれば、「終身雇用神話」に原因があると思うのだ。

さて、今の教育制度が抱える問題の原因が終身雇用制度にあるとはどいうことか。

当たり前の話だが、終身雇用制度は、一度入社した人間は定年退職するまで同じ会社で働くという前提に基づいている。そして、そのような前提があるが故に、会社に必要な人材は会社で育てる、という仕組みが成り立ってきた。

しかし、会社に必要な人材は会社で育てる、ということは、企業が新卒を採用する際の基準として、「会社の役に立つ能力を持った人材か」ではなく、「会社にとって育てやすい人材か」を重視するという状況を生む。

その結果、文句を言わずに言われたことを言われた通りにできる人間の方が、評価が高いということになってしまう。

そのような状況では、学校教育の現場において、「本当に必要なスキルは社会に出れば教えてもらえるから、学校にいる間は覚え方だけ身に付ければいいよ」という考え方が蔓延し、言われたことを言われた通りにできることに重点が置かれても何ら不思議ではない。

現に、学校のテストで重要になるのは、いかに自分の考えを組み立てて論理を展開するかではなく、いかに模範解答に近い答えを書くかである。

そして、そのようなテストで良い成績を修めるために必要なのは、思考能力ではなく、むしろ余計な事は考えずにただひたすら暗記する努力である。

結局、日本の教育において、小学校から高校までの12年間というのは、言われたことを言われた通りにできる人間になるための訓練であり、大学の受験に合格するということは、その訓練に耐えてきたという社会的な証明でしかない(確かに、高い思考能力を持ち、自分で考えることによって大学入学のために必要な実力を身に付ける人間も大勢いるが、そのような人間にはそもそも学校での勉強など、何の役にも立っていないことが殆どだろう)。

日本の大学が国際的に評価が低いのは、言われたことを言われた通りにできる人間かどうかを選別するための、フィルターとしてしか機能していない大学が多いことが原因だろう。そのような人間であることは入学した段階ですでに証明され、社会に出てから必要なスキルは就職先の企業で身に付けるのであれば、大学に何を期待しろというのか。

とどのつまり、「社会人として必要なスキルは就職した会社で教えてもらえる」という甘い考えがもう過去のもになりつつあるという現実を社会全体が受け止め、学校教育の目的を、覚え方を身に付けることではなく、実質的なスキルを身に付けることに据えない限り、どのような教育システムも意味を成さないということだ。

だが現実には、学校は企業に入るために必要なものであって、企業に入ってから必要なスキルを身に付けるためのものではない、という価値観はかなり根強く残っている。これだけ終身雇用制度の崩壊や、実力主義の台頭が声高に叫ばれているにも関わらず、だ。

この問題の背景には、日本文化における「甘えの構造」や、深く考えないことで成り立ってきた安定した社会など、かなり根幹的な原因があるのだろうが、教育制度もそういった価値観に基づいて成り立っている以上、そのような価値観を覆す現実的な手法を抜きにして、教育システムだけ改革することは不可能だと思うのである。

「雑種路線でいこう」の過去の記事を読めば分かるが、筆者の南方さんの中では「終身雇用神話」はとっくに崩壊していて、早い段階から実力を身に付けることの必要性は、もはや疑う余地の無い周知の事実として成立しているのだと思う。なので、自分が上に書いたようなことは、今さらそんな事を指摘する必要は無いと考えておられるのだろう。

だが、「問題はゆとり教育ではなく」に書かれたような制度が実現するためには、実力で成功した人間を素直に認め尊敬する文化を根付かせることがまず必要なのではないかと思う。

例によってまとまりの無い文章であり、かつ最終的な問いに自分なりの答えを見出せてすらいないのだが、気になったのでとりあえずトラバしてみた次第である。

いつも楽しく読ませていただいている「Life is beautiful」さんで、面白い記事が投稿されていました。

「Life is beautiful」:長所と短所は切り離すことのできないものかも知れない(と開き直ってみるテスト)

タイトルの付け方からして、あからさまにわざと批判を誘発する書き方だと思うのですが、罠とは分かっていても一つだけ言いたいことが。

“「あ、気がついちゃった?そうなんだよ、でも直せないんだよね〜」と開き直った方がずっと楽な生き方だと思う”という発想自体が、短所としてリストアップされていた「他人がどう感じるかを十分に配慮しないで行動する。」ということにつながりますよね(^_^;

中島さん自身もおっしゃっていたように、長所と短所は表裏一体なのだとは思います。

回りが何と言おうが自分のアイディアを信じて突っ走るくらいの個性がないと、新しい事業を立ち上げて、数十人のスタッフを引っ張って 行くことはできないのかもしれません。

しかし、「他人がどう感じるかを十分に配慮しないで行動する」という点だけは、ちょっと考え直した方が良いように思います。

「自分のアイデアを人にちゃんと説明せずに走り始めて迷惑をかけることがある」、「自分に見えているものが他の人に見えないとイライラする」、「自分に協力してくれた人に十分な感謝の言葉や褒め言葉を投げかけない」、「他人がどう感じるかを十分に配慮しないで行動する」という短所が本当にあてはまるのであれば、きっと中島さんの周りにはそういう所をフォローしてくれている人が何人かいるはずです。

そういう人達に対して、「あ、気がついちゃった?そうなんだよ、でも直せないんだよね〜」なんて開き直るのは、どうかと思います。

ただ、今まで自分が見てきた人の中でも、特に社長職の人には、そういう人が多いような気がします。そして、みな人気があるんですよね。

きっと、そういった短所ですら受け入れられてしまうくらい、人間的な魅力やカリスマ性があるのでしょう。だから周りの人も、それでもこの人についていこうと思えるのだと思います。

しかし、本当に一人で生きていくのでもない限り、他人への配慮だけは、それができないと言って開き直ってはいけないと思うのです。

なんだか、実力も実績も何も無い青二才が偉そうなことを言ってしまってますが、これだけはどうしても聞き流せなかったので、思わずトラバしてしまった次第です。

増田小夜さんの、「例の吸着エントリが嫌な本当の理由」というエントリを読んだ。

「ソフトウェアなんて誰が作っても同じだ」

本当にそう思っている人がいるらしい。正直、あまりの無知さにビックリした。増田小夜さんも、そのような発言にずいんぶんと腹を立てているようだ。

確かに、プログラミング経験の全く無い人には、そう思えるのかもしれない。

だが、 「家なんて誰が建てても同じだ」と言われれば、「いやいや、それは無いでしょ」と思うのではないか。

何千万もかけて、ど素人に自分の家を建ててもらおうと思う人はいないだろう。ソフトウェアも、それと同じだ。

経験の浅い大工が建てた家というのは、見た目は普通の家とそう変わらない。しかし、住んでいるうちに、ドアの閉まりが悪かったり、壁紙の継ぎ目が粗かったりといった不具合に気が付く。そして、しばらくすると、家が傾き始めたり、窓が開かなくなったりといった致命的な欠陥が出てくる。ソフトウェアも、それと同じだ。

経験の浅いプログラマが作ったソフトウェアというのは、見た目は普通のソフトウェアとそう変わらない。しかし、使っているうちに、やけにフリーズしたり、やたらと処理に時間がかかったりといった不具合に気が付く。そして、しばらくすると、データの不整合が出始めたり、保存したファイルが開けなかったりといった致命的な欠陥が出てくる。

建築だろうが何だろうが、経験の浅い人が作った物というのは、概してそういう物だ。素人が書く文章とプロの書く文章、素人の撮った写真とプロの撮った写真、 素人の作った料理とプロの作った料理…

どれも、はっきりとした差がある。ソフトウェアも、それと同じだ。

ただ、一つ違うとすれば、素人の書いた文章も、素人の撮った写真も、素人の作った料理も、それに触れる機会が多くあるのに対し、素人の作ったソフトウェアというのは、めったに目にすることは無い。少なくとも、市販されることはまず無い。そう考えると、ある程度ITリテラシーの高い人じゃないと、そもそも素人の作ったソフトウェアがどんなものなのか、知る由が無いのかもしれない。

しかし、これだけは言える。もしあなたが、外部にITシステムを発注するような立場にいるなら、 「ソフトウェアなんて誰が作っても同じだ」という考えは捨てた方がいい。

家は、プロが建てた方が住みやすい。

文章は、プロが書いた方が読みやすい。

写真は、プロが撮った方が美しい。

料理は、プロが作った方が美味しい。

ソフトウェアも、それと同じだ。

自分が面白いと思うブログの特徴に気が付いたので、忘れないうちにメモ。

·独自の視点から書かれている

·文章が簡潔

·書いている人自身の経験に基づいて書かれている

·明確な読者層を意識(認識?)している

人に読んでもらえるようなブログを書くには、最低限、上に書いたようなことを頭に入れておく必要がありそうだ。

多少なりとも外国の言葉を習った人ならば、国・文化によって語彙に大きな違いがあることは知っていることと思う。

一つの言語に存在する言葉が、他の言語には存在しないということは良くあることだ。最近有名になったものでは、「モッタイナイ」という言葉がある。これも、日本語にしか存在しない(と言われている)言葉だ。

そんな、「言葉の違い」に関して、ちょっと面白いと思ったものを一つ紹介したい。それは、「好き」という言葉にまつわる話。

日本語では、「恋」と「愛」と二つの言葉があり、日本文化で育った者であれば、その違いは感覚的に理解できることだろう。しかし、例えばフランス語には、「恋」に値する言葉がない。愛も恋も、「amour(アムール)」という一つの言葉で表し、ニュアンス的には圧倒的に「愛」に近い。

また、日本語では 「愛している」と「好き」は明確に使い分けられる言葉だが、フランス語ではそのどちらにも「aimer(エメ)」という言葉を用いる。日本語なら、「音楽を愛している」と「音楽が好き」は全く違うニュアンスだが、フランス語ではどちらとも「j’aime la musique(ジェム・ラ・ミュズィック)」になってしまう。

ちなみに、その違いをどうやって認識するかというと、その言葉が使われた時の文脈で判断するのである。この言葉に限らず、フランス語では、会話全体から、それぞれの単語を意味付ける傾向がある。そのため、文章全体を読まないと、大きな勘違いをすることがある。ここら辺の話は、Life is beautifulさんの「日本語とオブジェクト指向」というエントリを読むと、より面白いかもしれない。

ちょっと話が逸れたが、また「好き」という言葉に話題を戻そう。

先ほどフランス語について触れたが、その隣国スペインでは、また違った言い回しがあって面白い。

フランス語では「好き」と「愛している」を区別しないのに対し、スペイン語では「愛する」は「amar(アマール)」、「好き」は「gustar(グスタール)」という風に、別の動詞を使う。

しかし、恋人同士の間で「愛している」といった言葉をかける際は、「te amo(テ・アモ)」よりもむしろ「te quiero(テ・キィエロ)」という言い回しを使う。この「te quiero」という言葉、直訳すると実は「あなたが欲しい」という意味だったりする。

「あなたが欲しい」なんていう言葉を、普段から何気なく使うあたり、さすが情熱の国スペインという感じである。

また、フランス語の「aimer」や英語の「love」と違い、日本語で「愛する」は、「愛」+「する」という 複合的な動詞である点も興味深い。韓流ドラマなどで耳にする「사랑해요 (サランヘヨ)」も、「愛」を意味する「사랑」と、「する」を意味する「해요 (한다の変化形)」の組み合わせで、日本語と全く同じ構成だったりする。

もう脈略も何もあったもんじゃないが、要は「言語ってのは面白いね」ってだけの話だ。

なんだか、何が言いたいのか良く分からないエントリになってしまった。久しぶりにキーボードで書いたのが災いしたか。

ネットの世界、情報の世界では、発信することでしか自分の存在を主張できない。

そして、当たり前のことだが、存在しない者は何もできない。

また、情報世界と現実世界の境界は着実に曖昧になってきており、情報世界で何もできない者は、現実世界においても、そのプレゼンスが限られてくることは間違いない。

そうなると、これからの時代、何かやりたかったら、ネット上でもプレゼンスを持つ必要がある。

自分がブログを書くのは、今のところ、このネット上のプレゼンスを確立することが目的である。

うまく行くかはまた別問題ではあるが…

ワーキング・プアというのは、資本主義の名の基に合法化された奴隷制度の産物ではないか。

本当の意味での奴隷と違う点は、「いつでも辞められる」こと。ただし、辞めれば生活ができなくなる。

奴隷制度の時代においても、奴隷は自ら死を選ぶことで、その苦しみから抜け出すことはできただろう。

その点でも、ワーキング・プアと呼ばれる人々は、現代の奴隷と呼んでもおかしくない状況にある。

この状況を改善するには、奴隷制度が撤廃された時と同じような、価値観の大変化を促す必要があるだろう。

いずれにせよ、難しい問題だ…

携帯で書くことのメリットの一つとして、気が付いたことがある。

それは、文章が簡潔になるということ。

キーボードだと、とりあえず書いて、少しずつ修正するという作業も苦ではないのだが、携帯だとそうはいかない。

その分、ダラダラと書き流すということをしなくなり、きっちりまとまった文章になる。

また、携帯で書く時は、電車で移動中だったりと、限られた時間で書く必要があるシチュエーションが多いので、それも文章が簡潔になる理由の一つかもしれない。

いずれにせよ、何気なく始めた携帯でのブログ更新だが、予想外の効用があるようだ。

今後の展開が少し楽しみになってきた。

昨日に引き続き、携帯で書いてみる。

未だにめんどくさいとは感じるのだが、使いこなせるようになれば、下手したらPCより早く書ける気がしてきた。

キーポイントは予測変換機能である。

自分はまだPCで書く感覚が抜けきっていないので、全ての文字を書いてから変換してしまう。

しかし、携帯での文字入力の真髄は、予測変換機能を使ってタイプ数を減らすことにある。

ブラインドタッチとはまた違うこの感覚に慣れるのには、もうしばらくかかりそうだ。

自分がこのブログに書くことは、大抵がたんなる思いつきで、いわばオンラインの雑記帳だ。

そして、そういう思いつきは、電車で移動している時などに突然ひらめくことが多い。

そうなると、携帯で更新できると何かと便利である。

が、今の自分には携帯で文章を書くのはかなり苦痛である。最上級にかったるい。

しかし、世の中には携帯で小説を書き上げる強者もいる。要は、慣れの問題でしかない。

また、携帯のタイプが早くなると、これからの時代、何かと便利な気がする。

ということで、これからはちょくちょく携帯で更新してみることにした。

これは、テストも兼ねた、携帯で更新したエントリー第一号である。

果たして上手くアップできるだろうか。
ちなみに、ここまで書くのに10分近くかかっている。もし正常に更新されなかったら、しばらく携帯で文章を書くのは諦めよう。

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